富士山の伏流水で作る【忍野八海そば】とは

忍野八海そば

日本における歴史は実に9000年!意外と知らない「そば」のルーツ

日本のそばは、元をたどれば大陸伝来の食べ物となります。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっている。

そば作り体験

だが、日本でソバの栽培が始まった時期はかなり古くまでさかのぼれる。日本史の中でも最も古い時代区分の縄文時代にたどり着くともいう。高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられているのだ。さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっている。

稲作が日本に入ってきたのが縄文時代の後期(約2800年前)とされていますが、そばはそれよりも早くから食べられていたことになります。ただし、稲作のように栽培されていたわけではなく、あくまで採集の延長だったと思われます。

そば作り体験

「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』。奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔の中に、次のような「蕎麦」の記述が残っています。

「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」

日照り続きで稲の収穫が見込めない中、普通より遅く実る晩禾とよばれる稲や小麦とともに、栽培が推奨されたのが「そば」。そばは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられました。

初期のそばは麺状ではなかった?!

今まで紹介してきた「そば」はあくまで凶作に備えた備蓄食品としての役割を持っていました。

何故、そばは当時主食になりえなかったのか。それはそばの硬い殻に原因があるようです。

そばの実

米のもみ殻は取りやすいのに対し、そばの殻は硬く、脱穀が大変でした。

石でたたき、粉にしてからようやく食べることが出来ます。このように、米のように人々の生活を支える主食としての栽培価値はありませんでした。

鎌倉時代に入り中国から石臼(いしうす)が伝った事で、蕎麦粉の大量生産が容易になり「蕎麦掻き」や「そば焼き餅」が広がっていく。初期の蕎麦は細長い麺状ではなく、団子や餅のような形状で食べられていました。

石臼

室町時代に入り、ようやく麺状のそばが登場します。麺状のそばは、従来の「蕎麦掻き」と区別するために「蕎麦切り」と呼ばれていました。その名残で、現在も「蕎麦切り」の名称が残る地域があります。ちなみに、「蕎麦」の二文字を「そば」と呼ぶようになったのもこの時代です。

江戸時代、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していきました。江戸時代初期には、寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されます。1643年(寛永20年)日本で最初の料理本である「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの作り方が掲載されました。

当時の蕎麦は今のようにお湯で茹でるのではなく、蒸籠で蒸して食べました。蕎麦粉100%で作られており、茹で方が難しかったようです。

多種多様になる「そば粉」の混ぜ方

そば打ち体験

そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていきました。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされています。

そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生しました。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」など、粉の混ぜ方が多種多様になったのはそれだけ人々がそばに興味を持つようになったということです。

そば打ち体験

今も続く「そば屋」が開店したのも江戸時代です。江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げます。「更科そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもの。信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたといいます。

一方、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生しました。こちらはソバの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばだ。

更科そばや藪そばを供すそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたといいます。

凶荒作物から”縁起物”へ

そば打ち体験

そばにとってのもう1つの重要な変革も、この時期に起きます。それは、飢饉をしのぐ「救荒食としてのそば」から、縁起のよい「ハレの食品としてのそば」への転換です。

晦日に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われています。もともと、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったといいます。そのゲン担ぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったとされています。

麺としてのそばは、江戸の人々に縁起物として愛されていきました。

忍野八海そばとは

忍野八海

山梨県の南東部に位置する忍野八海は宇津湖が干上がってできた場所で、現在も富士山の湧水が湧き出しています。他県からの観光客だけでなく、世界中からの観光客も立ち寄る人気の観光地となっています。

名水100選にも選ばれるほどの美味しい水が湧き出るだけあって、忍野八海はおいしい蕎麦が食べられるスポットとして知られています。

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